オガワさん

時折りホコリっぽい風が吹き荒れるこの時期、僕はオガワさんを思い出す。

オガワさんは僕が大学生のころバイトしていた駅前の大きな居酒屋(今はもう無い)の厨房を任されていたヒトで、当時五十代半ばだったと思う。小柄なオガワさんは、いつもポマードで髪を七三に分け、白い上っ張りを着た姿はなかなかカッコよかった。
驚いたのはその鮮やかな包丁さばきだ。お通しにする100食分ほどの煮物を大鍋をゆすって一気に炊く。火加減は終始強火。材料を切るところから完成まであっという間なのに、そのウマイことといったらなかった。洗い場専門のアクツさんは「これで何杯でも飲めるヨ!」と嬉しそうにつまみ食いし、コッソリ湯飲みに注いだ日本酒をすすっていた。
オガワさんは他にも様々な包丁の技を見せてくれた。野菜や魚、カマボコ、などがみるみるうちに複雑で美しいカタチを現わす。
オガワさんは冗談が好きだ。店が最高に忙しい時、「オガワさん!この寄せ鍋どこっすか?」と行き先を聞くと「おーう、それなら新宿行って赤いハンケチ持った女に聞いてみな!」と返ってくる。ジョーク(?)のつもりらしいが、くり返されると殺意が湧いてくる。そんな合間に一瞬、僕に湯呑みを傾ける仕種をする。それを合図に店長の眼を盗んでスバヤク日本酒を注いで渡す習わしだった。

オガワさんは僕が生まれて初めて会った「ホンモノのアル中」だった。お酒が切れると手が震え、ささいなことで大声を出した。無断欠勤もしょっ中。
中卒で北海道から上京し、大店(おおだな)で年季を積んだオガワさんは料理人として一時はたいそう羽振りが良かったらしい。何百人も収容できるキャバレーの厨房を任されたり、自分の店をいくつも持ったり。

その全てを酒で失い、安い居酒屋に流れ着いたというワケ。そしてこの業界(飲食業)にアル中が少なくないことをその後知った。

僕はそんなオガワさんが嫌いではなく、簡単な「飾り切り」や盛り付けのコツを教えてもらったりして、仲は悪くなかった。店長はいつもカリカリしてたし実際にときどき修羅場にもなったけど、人手不足だし、腕はいいのでクビにできなかったんだと思う。

そんなオガワさんに最後に会ったのは僕が大学をどうにか卒業した春、バイトを辞めてしばらく経った風の強い日だった。他店に移っていたオガワさんはしわしわのスーツを着てニッコリ笑うと「おーうコンチャンしばらくだなァ、今度ウチの店に飲みに来いよォ」と言いながら視線は僕を素通りして遠くを彷徨っていた。